という次第で、サケ缶は輸出品の主役として期待されたのだが、しかし明治20,30年代にはいると、事情がちょっと変わってきた。日本が日清、日露の戦争に突入し、保存が利いて力がでる軍事用の食材がもとめられたからである。もともと、缶詰はナポレオンが戦争に持っていく食料の保存法をひろく募ったときに生まれた発明品だった。ここで保存食として注目されたのが、サケ缶をはじめとする缶詰だった。日本の兵隊さんたちがはじめて缶詰を食べ、おいしさに感動した。今もそうだが、缶詰は文化というよりも文明の味がするから。缶詰が国内でも消費されるきっかけは、これを味わった兵隊さんたちが除隊したあと故郷で缶詰の便利さ、おいしさを、宣伝したことだ、とよくいわれる。こうして、国内にも缶詰ブームの予感がでてきた。
大正時代にはいると、さらにサケ缶のライバル「カニ缶」が登場して、国内の人たちも缶詰のおいしさに関心を向けるようになる。このカニ缶は洋上にある船の中で加工され缶詰になった。余談になるが、蟹工船ではたくさんの人が働いた。けれども、過酷な労働だったようだ。小林多喜二の名作『蟹工船』は、そういう船内の労働環境を描いた小説だ。
さて、おいしい缶詰が出揃うのを見て、業界は国内にも缶詰を広めようという気になった。大正11年にはサケ缶などを国内でたっぷり食べてもらおうというキャンペーンをおこなう「缶詰普及協会」が設立される。これに歩調をあわせ、サケ缶を船内で生産する「サケ工船」が登場し、輸出も国内販売もともに急成長するようになった。船の中で生のサケを缶詰にするから、おいしいサケ缶ができる。またまた余談だが、この船内製造によるクラシックで新鮮な味のサケ缶を、昔の紙ラベルと一緒に再現した復刻版缶詰が、今ニチロ(現マルハニチロホールディングス)で発売されている。これがまた、うまい!! よき昭和の味がする。
ちなみに、サケ缶の有名ブランドとなったニチロ(現マルハニチロホールディングス)は、明治30年代末に「堤商会」として創業した。国内向けの塩蔵品だけでなく、明治43年には早々と輸出用のサケ缶を生産するため、トタン屋根の小さな工場を建設している。でも、設備はまだオモチャみたいだった。ブリキ板を手で丸め、ハンダづけして缶詰にしたそうだ。しかし、大正のはじめには新しい機械を用いて「衛生缶」をつくり、欧米で人気のある紅サケの缶詰を大量生産する道をひらいた。このとき「あけぼの印」も誕生している。この赤い日の出のマークは、きっと、紅サケの赤を連想させる役目を期待されたのだろう。もうひとつ、おまけのトリビアを書いておきたい。ニチロという社名は、旧社名の日魯漁業から来ている。でも、なぜ日魯と書いたかはあまり知られていない。北洋のサケマス漁場をともに重視した日本とロシアを並べて「ニチロ」なのだが、ロシアのロを「露」としないで「魯」としたのには、わけがある。「露のようにはかない」と縁起が悪い。一方、「日魯なら、ふたつの日が魚をはさむので、毎日漁獲があるという縁起の良い意味」になるから、採用されたという。 |